ちょっと不思議なショートショート

10秒から10分の間に読めるSF短編を淡々と上げていくブログです。

かけっこ

「かけっこを始めよう」

げんちゃんは、そう言った。そこは、木陰の涼しげな縁側で、風鈴がチリンチリンとなっている。でも、外は暑くて、その証拠に、コースターの上のガラスのコップは、たらたらと汗を流している。家の門を通して見えるアスファルトは、白くまばゆい光が差し込んで、ゆらゆらと蜃気楼が揺れていた。

「暑いからやだよ。それに、どうせ、げんちゃんが勝つに決まっている」

「勝ち負けじゃないよ。さあ、行こう!」

げんちゃんは、スタートダッシュを切って、歩道へと駆けていった。

 彼に追いつけば良いのだろうか?

「オカ君はどうする?」

僕よりもさらに線の細い少年に聞く。

「僕は行くよ」

彼は、小さな丸い目に決意の光を灯して、歩道へと飛び出して行った。僕は、ひとりぼっちだけは嫌だったから、彼の後を追いかける。アスファルトは、固くて痛いし、太陽が照りつけるおかげで、汗はとめどなくこぼれた。でも、景色は良かった。並木の緑、屋根の赤、ブロック塀の灰色までも、とてもみずみずしく、新鮮に映った。

 気づけば、僕は、オカ君を追い抜いていた。

 オカ君を超えると、彼方先には、げんちゃんの後ろ姿があった。彼は、やっぱり足が速くて、どんどん小さくなっていく。僕は、追いつけるように、歩幅を大きく走った。

 

 突如、キキーッと、急ブレーキの音が後ろからした。振り返ると、オカ君はいなくなっていた。

 

「オカ君?」

呼びかけても返事はない。僕は、道を逆走しようとしたけど、呼び止める声があった。

げんちゃんだった。彼も、道の先で、呆然と後ろを見ていた。

「オカ君は、そこにはいないよ。ずっと先に行ってしまった。僕らも前に進まないと」

 げんちゃんは、そう言って、再び駆け始めた。僕も、その後を追いかける。やがて、僕らの走っていた道は、もっと大きな道に合流した。そこには、僕らと同じように走る人達が沢山いて、僕らは、混ざり合い。同じペースで走り始めた。

 集団のペースは、速いわけでも、遅い訳でもなかった。だけど、以前のように、全速力で走るわけには行かなかった。押しのけて進めば、群れに弾かれて、逆にこけてしまうから、だから、僕は皆に会わせて、皆より少し速いペースで走った。前を走るげんちゃんも、そうしていた。

 しばらく集団で走っていると、目の前に、門が見えた。それは、道の幅と同じ大きさの門だったから、僕らは全員通らなくてはならなかった。そして、門の先には、もっと大きな道が広がっている。そこには、息切れをしたオジサンや、座り込んだおばあさんがいた。

 門の屋根の上には、物々しい教壇とピシッとしたスーツの男がいた。

「この門を抜けたら、全速力で駆けなさい」

彼は、そうやって僕らを鼓舞した。

門を超えたら、群れは一斉にほどけた。だけど、風景は変わらなかった。

空の青、ポストの赤、そして、アスファルトの灰色。ふと、昔より色あせて見えることに気づく。こぼれた汗の分だけ、水彩の優美さが抜け落ちているようだ。……でも、立ち止まって景色を見渡さなければ、虹彩の変化は、気にならない。

 げんちゃんを追いかけることで精一杯な僕には、関係のない話だった。黒い革靴が、すり減っても、賢明に彼の後ろを追いかけた。

 次第に、げんちゃんの後ろ姿が大きくなった。

 彼の隣には、女の人がいた。彼は、彼女の歩幅に合わせて走り始めたのだ。だから、追いつけるくらいに遅くなっていた。そして、ある時を境に、ぐっと、スピードが落ちた。

僕は、するりとあっけなく、げんちゃんを抜いてしまった。振り返ると、彼は乳母車を押していて、そこには、すやすやと眠る赤ん坊がいた。げんちゃんは、その赤ん坊の寝顔を見ることで、満足しているようにも見えた。

 孤独だった。

 僕は、目標を失い。さまようように道を走った。蜃気楼のような、げんちゃんの幻を追いかけていた。先を行く愚鈍な者は、突き飛ばし、突き飛ばされた者から足を掴まれれば、踏みつけた。進み続けて、ずっと良い靴を履いた。ずっと良い服を着た。ずっと良い時計もはめた。だが、体から抜け落ちた水を、再び得る方法はなかった。

 

 やげて、前を走る者は誰もいなくなった。

私は、杖をついていた。杖を握る手は、枯れ木のように細く、水溜まりに映る自分は、白く黄ばんだ髪も相まって、痩せほせた猛禽類に似ていた。今にも、折れそうな体であったが、私は歩くことを止めなかった。進む以外の生き方を知らなかった。

 

 カラカラと車輪の音がした。やがて、車輪の音は大きくなり、私は車椅子に乗った老人と、それを押す青年に追い抜かれた。老人は、私に振り返ると、ぬけ道を指さして、脇にそれていった。網膜に焼き付いていた幻覚のげんちゃんは、ふっと消えて、私は彼らの後に続くことにした。

 

 ぬけ道の先は、木漏れ日の差す縁側になっていた。そこには、我々を待っていたように、小さな男の子が一人座っている。男の子の横には、丸い盆が置かれていて、そこには、三杯のグラスに注がれた色の濃い緑茶があった。

 「勝ち負けじゃないよ」

 車椅子の老人が言う。

 「最後に飲むこれの味は、人によって違う。これまで歩んだ道のりによって味が違う。そのための旅だった」

 車椅子の老人は、縁側に腰を下ろした。車椅子を押していた青年は、元の道へと帰っていく。

 「一緒に飲もう」

 老人がそう言うので、私は彼の隣に座った。

 「じゃあ、僕から」

 私たちを待っていた少年が、真っ先にグラスを取って、緑茶を飲み干した。

 「君は若いから、緑茶は苦いだけだろう?もっと歳をとってから、緑茶を飲みたいとは思わなかったかい?」

 私が聞くと、少年は首を振った。

 「僕の緑茶の味が苦いと決めつけるのは良くないよ。……それに、この味は僕だけのもの。きっと言葉にしても伝わらない」

 少年の小さな丸い目が光った。

 「では、次は私が」

 老人が飲み干す。それに続いて私も飲み込んだ。

 「味はどうかね?」

 老人が聞く。

 「まずいな。甘くもないし、苦くもない。なんともいえない味だ」

 私は顔をしかめて言う。老人は笑った。

 「いいじゃないか、そうでなくてはつまらない。君の味が少しうらやましい。私の緑茶にはない味がしたのだろう?」

 「ああ、多分ね。オカ君とも、げんちゃんとも違う味さ」

 私は久しぶりに友の名を呼んだ。

この人生の終わりに。